ICUでの記憶 (その1)
こんにちは、心子です。
2017年3月の備忘録です。
大動脈弁閉鎖不全症になり「自己弁膜を使用した大動脈弁形成術」を受けました。
2017年3月6日の術後から3月10日までの3泊4日をICUで過ごしました。
淡々とした気持ちで手術に臨み、全身麻酔であっという間に何もない世界へ引き込まれました。麻酔の世界は不思議です、時間も感触も本当に何もないのです。そして、術後のICUでの時間は術前に比べると、それはそれは苦しく辛くもがき続けた数日間でした。
修繕前の私の心臓はポンコツではありましたが、日々の生活に苦労していた程ではありませんでしたから、私にしてみればこの苦しさは予想外の出来事とも言えます。「手術でこれこれこういう事をしますよ。」とか、「ICUには2日間位の予定です。」とか、「入院期間は3週間位です。」とか、そういう説明は存分に聞かされたりはしましたが、術後は苦しい思いをしますよ、なんて誰も言ってなかったぢゃんっ!教えてくれなかったぢゃんっ!!・・・が本音でしたね。
自動車に例えると、心臓はバッテリーでしょうか。
術後のICUでの私の体は、バッテリー切れのポンコツ車そのものでした。動くどころかエンジンすらかからず、プスプスと息をするのもやっとだったのではないでしょうか。
どんなにボロボロであってもせめて一般道を走れる車くらいにはなりたい!と思ったのは、もう少し先だったと思います。この時にはそんな意思すら湧きませんでした。今になって思えば、ポンコツ心子さんの楽しい老後に賭ける人生後半の勝負が、ここからが始まったのかもしれません。でも、こんな勝負はもうこれっきりでいいわー。
ま、とにかく手術後、ICUで過ごした修繕直後の心臓は、やっと拍動していたかのように感じました。
<ICU 2017年3月7日からの想い>
予定では、3月6日の夕方に手術を終了し、夜間に覚醒、翌朝に人工呼吸を離脱し、7日までICUの予定でした。ところが医師達も開けてびっくりな程くたびれ切った私の心臓だったそうで、結果的に4日間もICUのお世話になってしまいました。
その間、ほとんどが朦朧とした意識の中にいました。
時々、覚醒するけれどそれが夢なのか現実なのか、混沌としていて今でも判別することが出来ません。昼も夜も判らない、不思議な時間帯のなかで唯一感じるのは、恐ろしく辛い自分の体だけでした。
苦しかった、息が出来ない苦しさ、 体中に酸素が足りない苦しさ。
山登りの坂道で息が切れる、水中でもがく、それら全ての苦しさが自分の肺と心臓を押しつぶしていくような感じでした。
その朦朧とした意識の中で、相方さん、息子、娘、一人一人に謝っていたような気がします。そして、詫びながら、もう生きることに執着することを止めたいと、もう放っておいて!と本気で願っていました。もしかしたらそれを口にしていたかもしれませんが、良く覚えれいません。とにかく生きるのを止めて苦しさから解放されることだけを望んでいました。
しかし、主治医達やICUのスタッフ達は、私の望みとは反対の方向で、私を生かすことで、この地獄のような苦しさから解放してくれました。それは、進歩した医療技術だけではなく、経験と知識が豊富で技術力のある、忍耐強い優れたスタッフ達の「誠実さ」の結果であったのだと・・・、今だからそう思えます。
医師や看護師などのICUのスタッフにしてみれば、苦しむ患者と接するのは日常のことでしょう。この先、どう対応していけばこの患者は生き延びるかの手立てをすでに知っている、知識と経験がある側の人たちです。
患者である私にしてみれば初めて体験する苦しみでした。この先どうなるのか未知の世界でもがくだけです。
まるで多足類のように体中にドレーンや点滴管、リード、鼻からは酸素管などが装着され寝返りさえも出来ない姿でした。
いま在る苦しさから逃れたくて、生き続けること=苦しみの延長と思い込み、これ以上生き続けることなど望んでいないつもりの自分でした。なのに、ベッドの上で同じ体勢で寝ていることが辛くて意識のある時に「背中を上げてください。」「右向きにしてください。」などを、しばしばお願いしていた記憶があります。逆に言えばそれは、私自身の生きよう、生きたいとしていた姿勢から生じた依頼ではなかったでしょうか。 けれど、私は「苦しい、嫌だ。」を繰り返すだけのネガティブで嫌味な患者だったのです。
人の本性ってこんな時に現れるものなのかもしれませんね。
2017年3月の備忘録です。
大動脈弁閉鎖不全症になり「自己弁膜を使用した大動脈弁形成術」を受けました。
2017年3月6日の術後から3月10日までの3泊4日をICUで過ごしました。
淡々とした気持ちで手術に臨み、全身麻酔であっという間に何もない世界へ引き込まれました。麻酔の世界は不思議です、時間も感触も本当に何もないのです。そして、術後のICUでの時間は術前に比べると、それはそれは苦しく辛くもがき続けた数日間でした。
修繕前の私の心臓はポンコツではありましたが、日々の生活に苦労していた程ではありませんでしたから、私にしてみればこの苦しさは予想外の出来事とも言えます。「手術でこれこれこういう事をしますよ。」とか、「ICUには2日間位の予定です。」とか、「入院期間は3週間位です。」とか、そういう説明は存分に聞かされたりはしましたが、術後は苦しい思いをしますよ、なんて誰も言ってなかったぢゃんっ!教えてくれなかったぢゃんっ!!・・・が本音でしたね。
自動車に例えると、心臓はバッテリーでしょうか。
術後のICUでの私の体は、バッテリー切れのポンコツ車そのものでした。動くどころかエンジンすらかからず、プスプスと息をするのもやっとだったのではないでしょうか。
どんなにボロボロであってもせめて一般道を走れる車くらいにはなりたい!と思ったのは、もう少し先だったと思います。この時にはそんな意思すら湧きませんでした。今になって思えば、ポンコツ心子さんの楽しい老後に賭ける人生後半の勝負が、ここからが始まったのかもしれません。でも、こんな勝負はもうこれっきりでいいわー。
ま、とにかく手術後、ICUで過ごした修繕直後の心臓は、やっと拍動していたかのように感じました。
<ICU 2017年3月7日からの想い>
予定では、3月6日の夕方に手術を終了し、夜間に覚醒、翌朝に人工呼吸を離脱し、7日までICUの予定でした。ところが医師達も開けてびっくりな程くたびれ切った私の心臓だったそうで、結果的に4日間もICUのお世話になってしまいました。
その間、ほとんどが朦朧とした意識の中にいました。
時々、覚醒するけれどそれが夢なのか現実なのか、混沌としていて今でも判別することが出来ません。昼も夜も判らない、不思議な時間帯のなかで唯一感じるのは、恐ろしく辛い自分の体だけでした。
苦しかった、息が出来ない苦しさ、 体中に酸素が足りない苦しさ。
山登りの坂道で息が切れる、水中でもがく、それら全ての苦しさが自分の肺と心臓を押しつぶしていくような感じでした。
その朦朧とした意識の中で、相方さん、息子、娘、一人一人に謝っていたような気がします。そして、詫びながら、もう生きることに執着することを止めたいと、もう放っておいて!と本気で願っていました。もしかしたらそれを口にしていたかもしれませんが、良く覚えれいません。とにかく生きるのを止めて苦しさから解放されることだけを望んでいました。
しかし、主治医達やICUのスタッフ達は、私の望みとは反対の方向で、私を生かすことで、この地獄のような苦しさから解放してくれました。それは、進歩した医療技術だけではなく、経験と知識が豊富で技術力のある、忍耐強い優れたスタッフ達の「誠実さ」の結果であったのだと・・・、今だからそう思えます。
医師や看護師などのICUのスタッフにしてみれば、苦しむ患者と接するのは日常のことでしょう。この先、どう対応していけばこの患者は生き延びるかの手立てをすでに知っている、知識と経験がある側の人たちです。
患者である私にしてみれば初めて体験する苦しみでした。この先どうなるのか未知の世界でもがくだけです。
まるで多足類のように体中にドレーンや点滴管、リード、鼻からは酸素管などが装着され寝返りさえも出来ない姿でした。
いま在る苦しさから逃れたくて、生き続けること=苦しみの延長と思い込み、これ以上生き続けることなど望んでいないつもりの自分でした。なのに、ベッドの上で同じ体勢で寝ていることが辛くて意識のある時に「背中を上げてください。」「右向きにしてください。」などを、しばしばお願いしていた記憶があります。逆に言えばそれは、私自身の生きよう、生きたいとしていた姿勢から生じた依頼ではなかったでしょうか。 けれど、私は「苦しい、嫌だ。」を繰り返すだけのネガティブで嫌味な患者だったのです。
人の本性ってこんな時に現れるものなのかもしれませんね。
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